「ギフテッド」という言葉の呪縛

オルタナティブスクールに通う息子は、日本では2%のマイノリティにあたるらしいです(私立小学校が多い首都圏など地域差は多少あると思いますが)。

 

学校基本調査-令和5年度(速報) 結果の概要-:文部科学省

 

そういうことで、お会いする方から、子どもの進路や様子について色々興味を持っていただく機会が多いのです。

それで、なぜ子どもがオルタナティブスクールに通うという選択をしたのか、なぜ親としてその選択を支持したのか、みたいなことを説明するのですけど、そうすると最近は「◯◯くん、ギフテッドやん!」と言われることが増えてきました。

 

「ギフテッド」って知的能力が著しく高い子とか、特定の分野に非常に強い興味・関心を持つ子とか、そういう子どもを表現する言葉として使われている気がする。特に日本では、「特別な子」とか「賢い子」とか、そういう表現。

もともと欧米では、教育経済学的な文脈から、社会資源として、そういった特定の分野に強みをもつ子どもたちを対象とした支援教育を行うことが、社会全体への投資になる、という考え方のもと、ギフテッド教育が普及してきた模様。

 

その言葉自体は使っていないけど、日本でも特定分野に才能がある子を支援していこう〜!という流れになっていて、ギフテッドという言葉が市民権を得てきているよう。

特定分野に特異な才能のある児童生徒への支援の推進事業について:文部科学省

 

それで、たしかに息子は乳幼児期から特定の分野に対しての興味や理解力が高く、発達年齢以上のことを理解したり問題を解いたりしているし、もしかすると「ギフテッド」と分類されるのかもしれないけど、分類されることに全く意味はないって思っている。なので、これまでも(これからもきっと)知能検査とかを子どもに受けさせるつもりは全くない。(本人が、自分のことを知りたいという目的で受けたいと言ったらそれはいいよと言うつもりだけど)

 

私の考えとしては、特定の子どもを「ギフテッド」とラベル付けすることは、(学術的意味や臨床の現場における意味などをのぞいて)私のような一般の母にとって、メリットのあることではないなと。

むしろ、そのようにラベル付けすることによって、「特別にならなければならない」「秀でていなければならない」「普通はだめ」みたいな、優劣とか不要な競争を生んでるんじゃない、今?という気がしている。首都圏では中学受験がものすごい加熱しているし。

この子を伸ばしたい、失敗してほしくない、いい学校に入って将来いい仕事について…みたいな焦りというか、不安というか、そういったものを映し出しているのではと思ったり。(子どものオルタナティブスクールについて話をすると、必ず「進路(進学、受験とか)はどうするの?」とセットで聞かれるんだよね。たしかに、今のスクールは中学がないから、中学校どうするかはいずれ考えないとなのだけど)

 

ちなみに、息子に中学受験をさせる気は全くない。本人がしたいと言えばもちろん応援はするけど。近所の公立の中学校に通うでもいいし、別のフリースクールのような場所で過ごすでもいいし、それはそのときに考えればよい、と思ってる。

 

ギフテッドって、「特別な子」のような、そういうニュアンスを感じるのだけど、全ての子どもが違う個性を持っていて、それぞれが等しく与えられた、授かりし大切な個だと思う。長男と次男でも全く違うし、次男には長男のような特定の分野への強い興味関心は今のところないかなぁって思ってる。

特別でなければならない、何かに秀でていなければならないわけはなく、ありのままのその子の存在そのものが「ギフト」だと感じて、日々子育てをしているかぁちゃんです。